「川崎フロンターレ」と「FC東京」がJ1に初参戦⚽
2000年シーズンは、「J1」と「J2」の2部制。「自動昇格」「自動降格」が「2枠」設定され、「J1」の年間順位の下位2チームと「J2」の上位2チームとで入れ替えになります。
1999年に開幕した「J2リーグ」の初代優勝クラブとなった「川崎フロンターレ」と2位の「FC東京」の2クラブがJ1に昇格。「16チーム」での戦いとなりました😃
悲願の初昇格を果たした「川崎フロンターレ」でしたが、わずか「3勝」しか出来ず苦しいシーズンとなり、「京都パープルサンガ」と共にJ2降格になってしまいました😭
フランス人監督「フィリップ トルシエ」に率いられた日本代表は国際舞台で強さを発揮します。9月に開催された「シドニーオリンピック」と10月開催の「AFCアジアカップ2000」に参戦。
「シドニーオリンピック」でのアメリカとの準々決勝はPK戦で敗退しましたが、「AFCアジアカップ2000」ではサウジアラビアを下して優勝。1992年以来のアジア制覇となりました🏆
「J2リーグ」2年目となる2000年の参加クラブは「11」での4回戦総当たりの全220試合。「浦和レッズ」と「湘南ベルマーレ」がJ1から降格し、JFLで好成績(3位)を収めた「水戸ホーリーホック」で行われました。参加クラブ数が「11」と奇数になったため、各節で1チームが試合がないという変則日程となり「全44節」が行わました⚽
人気クラブの「浦和レッズ」の観客動員パワーが影響したのか、1999年は平均観客数が「4,596人」から「6,095人」と「約130%増」に!その「浦和レッズ」が1年でのJ1復帰を決める「サガン鳥栖」を迎えた最終節は、「駒場スタジアム」に満員の「20,207人」を動員しました😲
2000年シーズンのJ1は、16チームによる「ホーム・アンド・アウェー」2回戦総あたりの「2ステージ制」。1999年シーズンと同じく、勝ち点は90分勝利が「3」、延長戦勝利は「2」、引き分けの場合は両チームに「1」というレギュレーション⚽
シーズン途中の9月に「シドニーオリンピック」と10月に「AFCアジアカップ2000」に参加したため、8月19日の2ndステージ第10節から2か月を超える中断期間が設けられました😃
「オリジナル10」のひとつである「鹿島アントラーズ」が、リーグの年間チャンピオン、ナビスコカップ、そして天皇杯も優勝。Jリーグ史上初のシーズン「3冠」を達成しました🏆🏆🏆
鹿島が2年ぶり3度目のリーグ優勝を飾りました🏆
現在の川崎フロンターレからは想像出来ない姿がありました😧
2000年11月4日に「ヤマザキナビスコカップ決勝戦 川崎フロンターレ vs. 鹿島アントラーズ」が国立霞ヶ丘競技場で行われました。
J1昇格1年目だった「川崎フロンターレ」は、2度の監督交代、選手の大幅な入れ替えなどチームは苦境に立たされていました。しかし「ナビスコカップ」では、「浦和レッズ」「柏レイソル」「ヴェルディ川崎」「京都パープルサンガ」に次々と勝利して、Jリーグタイトルを初の決勝進出。
決勝で「川崎フロンターレ」は、強豪の「鹿島アントラーズ」を前に準優勝。これが後に「シルバーコレクター」と揶揄されることになる歴史の1ページ目だったのです📝
なおこの年の大会レギュレーションは、J1とJ2の全27クラブで、全ての試合が「ノックアウトトーナメント方式」で行われました。1回戦から準決勝までを「ホーム・アンド・アウェー」で試合を行い、2試合の合計点数で勝敗を決めるという見応えある大会でした🏆
1999年の「天皇杯全日本サッカー選手権大会」で初対戦。2000年からは「川崎フロンターレ」がJ1に昇格したため、当時J1だった「ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)」とのリーグ戦での「川崎ダービー」が行われました🔥
対戦数はわずかに5回で「川崎フロンターレ」の「1勝2分2敗」。しかし「川崎フロンターレ」が1シーズンでのJ2降格。「ヴェルディ川崎」はこの年限りでホームタウンを神奈川県川崎市から東京都に移転。チーム名も「東京ヴェルディ1969」としたため「川崎ダービー」はこの年に消滅しています💣
川崎フロンターレ
<1勝2分2敗>
ヴェルディ川崎