「ジョホールバルの歓喜」で日本中がサッカーによって熱狂しました⚽🌋
1997年シーズンは、Jリーグ準会員だった「ヴィッセル神戸(川崎製鉄水島サッカー部(87年に川崎製鉄サッカー部に改称))」がJFL2位になり「全17チーム」という史上初の奇数チームによるリーグ戦になりました。ちなみにJ1が奇数になったのはこの年が最初で最後です。
この年11月16日「ジョホールバルの歓喜」が起こります。日本代表が「FIFAワールドカップ アジア最終予選 第3代表決定戦」でイランに勝利して、長年の悲願だった「FIFAワールドカップ」の初出場を決めたのです。「11月16日」は国民の休日にしても良いくらいの熱狂と歓喜が日本中を駆け巡りました🎊🎊🎊
日本代表の活躍は世間を賑わせましたが、Jリーグ人気の低迷が止まりませんでした。開幕した93年の1試合あたりの平均観客数は「17,976人」。しかし翌94年の「19,598人」でピークアウトして、97年はついに「10,131人」と過去最低の数字になってしまいました😭
1997年シーズンは2年ぶりに「2ステージ制」が復活。ただし95年シーズンまでのステージごとの「ホーム・アンド・アウェー」での2回戦総当りではなく、1回戦総当たり(17節×2ステージ)が採用されました。
このため各ステージでホームでしか対戦しない相手、アウェーでしか対戦しない相手が発生。奇数チームでのリーグ戦のため、各節につき1チーム 試合がありませんでした。
リーグ戦は引き続き「完全決着方式」を採用しましたが、96年の「鹿島アントラーズ」が「PK戦負け」の数の差で優勝したこともあり、勝ち点配分の見直しが行われました。その見直しにより、90分勝ちが「勝ち点3」、Ⅴゴール勝ちが「勝ち点2」、PK勝ちが「勝ち点1」に改正。
負けた場合はいずれの場合も「勝ち点0」になりました。また97年シーズンから「背番号固定制」となった。リーグ戦の冠スポンサーは無くなりましたが、「Jリーグチャンピオンシップ」は、サントリーが冠スポンサーとなり「サントリー・チャンピオンシップ」の名称で開催された。
この年の1stステージが4月12日開幕、7月12日閉幕、2ndステージが7月30日開幕、10月4日閉幕と約半年間で全34節をこなす過密日程でした。
これは3月に「アジア1次予選」(日本とオマーンでの「ダブルセントラル開催方式」)、11月に中立地で「アジア最終予選」の開催が予定されていたため。しかし開催地をめぐって対立が起き、互いに譲り合わなかったため、最終予選開幕直前に「ホーム・アンド・アウェー方式」に変更された。といった事情がありレギュラーシーズン最終節がJリーグ史上最も早い10月4日となりました。
97年9月24日「2nd 第14節 ジュビロ磐田vs.ガンバ大阪@ジュビロ磐田スタジアム」💥
2ndステージの優勝争いを繰り広げていた「ジュビロ磐田」と「ガンバ大阪」による直接対決。
ブラジル代表のキャプテン 闘将・ドゥンガを擁する「ジュビロ磐田」。対するは「ガンバ大阪」は、カメルーン代表のパトリック・エムボマ。そして若き稲本潤一や松波正信らも出場したこの試合。延長戦での劇的なドゥンガのⅤゴールが決まり、初優勝への道のりを進んでいくのでした🏆
カメルーン代表として活躍していた「パトリック・エムボマ」💣数々のスーパーゴールをJリーグで披露してくれた彼の異名は「浪速の黒豹」。Jデビュー戦の「1st 第1節 ガンバ大阪vs.ベルマーレ平塚」で万博で魅せたゴールはもはや伝説です(97年4月12日)